治癒師は、何一つ後悔せず死ぬ人間を作りたい

本文

「心残りはありますか」

僕は、死にかけている人に必ずそう聞く。

十四のとき、初めて看取った老婆は、息子に謝りたいと言った。

十六のときの猟師は、もう一度だけ森へ入りたいと言った。

二十一のとき、三人の子供に囲まれた母親は、もっと一緒にいたかったと泣いた。

みんな、何かを残した。

言いたかった。

見たかった。

もう少しだけ生きたかった。

ある夜、薬草を刻んでいた師匠に聞いた。

「何一つ後悔せずに死んだ人って、見たことありますか」

「ないな」

「一人も?」

「死ぬ間際になりゃ、みんな欲張りになる」

僕は少し考えた。

「じゃあ、作れますかね」

包丁が止まった。

「何を?」

「何一つ後悔せずに死ぬ人です」

師匠は長いこと僕を見てから言った。

「お前は治癒師になる前に、一回頭を診てもらえ」

結局、頭は診てもらわなかった。

その代わり治癒師になった。

村人は、僕のことをずいぶん親切な人間だと思っている。

足の悪い老人の家へ往診し、熱を出した子供を診て、金のない家からは薬代を取らない。

薪が積めずに困っていれば手伝うし、読み書きのできない老人には息子から来た手紙を読んでやる。

治癒には患者の暮らしを知ることが大切だ。

僕の場合、それ以上に大切だった。

病気を治しても、人は満足しない。

足を治せば畑へ戻りたがる。

畑へ戻れば、都会へ出た息子を心配する。

息子が帰れば、今度は孫の将来を気にする。

一つ消すと、次が出る。

人間の心残りは、病気よりずっとしつこい。

だから、ずっと試してみたかった。

全部消したら、どうなるのか。

試してみる相手は、七十一歳の家具職人ガルドだった。

「腰が痛え」

診察台に座ったガルドは、開口一番そう言った。

「腰だけですか」

「膝もだ」

「他には」

「右肩が上がらん」

「他には」

「お前は俺を病人にしたいのか」

「確認しているだけです」

「歯も一本抜けた」

「それは治せません」

「役に立たんな」

口は悪いが、治療が終わると何度も腰を捻り、膝を曲げ、右腕を上げた。

「……痛くねえ」

「しばらく無理はしないでください」

「今日から仕事する」

「どうぞ」

嬉しそうだった。

僕はいつもの質問をした。

「もし今日死ぬとしたら、心残りはありますか」

ガルドの顔から笑みが消えた。

「縁起でもねえこと聞くな」

「ありますか」

「……そりゃ、ある」

「一番大きいものは?」

しばらく黙ってから、ガルドは言った。

「息子だ」

王都にいる。

十二年前、工房を継がないと言って喧嘩別れした。

それ以来、一度も会っていないらしい。

僕は診療記録の病名の下に、新しい欄を作った。

《心残り:息子》

七十一歳。

妻とは死別。

身体は、僕がしばらく保たせられる。

心残りは具体的。

悪くない。

最初に手をつけたのは、息子だった。

名前はダリオ。王都で商いをしている。

手紙を二通送った。

一通目には、ガルドの腰が悪いと書いた。

返事は冷たかった。

二通目には、

《死んでからでは確認できないこともあります》

とだけ書いた。

一か月後、ダリオが村へ来た。

工房の前で父親を見るなり言った。

「死にかけていると聞いた」

「誰が死にかけだ!」

二人が同時に僕を見た。

「そんなことは書いていません」

「この野郎」

「先生、後で話があります」

その日は夕方まで喧嘩していた。

翌朝も喧嘩した。

三日目、ダリオが工房の椅子を直していた。

四日目、ガルドがその直し方に文句をつけた。

六日目、ダリオは王都へ帰った。

「春にまた来る」

「勝手にしろ」

ガルドはそう言った。

僕は記録の《息子》に線を引いた。

春、ダリオは妻と娘を連れて戻ってきた。

七歳の孫娘はガルドを見るなり、

「お父さんより怖い顔」

と言った。

ガルドはその日から、孫娘が帰った後の家を「静かすぎる」と言うようになった。

僕は線を引いた《息子》の下に、新しく書いた。

《孫の成長》

一つ減らしたら、一つ増えた。

他にもあった。

死んだ妻エマを、海へ連れていく約束を守れなかった。

工房を継ぐ人間がいない。

若い頃に作った食器棚が、今どこにあるか分からない。

昔喧嘩した鍛冶屋に、謝れないまま死なれた。

僕は一つずつ潰した。

海までは三日かかった。

ガルドは馬車に文句を言い、宿に文句を言い、潮の匂いにも文句を言った。

浜へ出ると、何も言わなくなった。

懐から青い髪紐を出した。

エマのものだった。

「海を見たいって言ってた」

「どうして来なかったんです」

「来年でいいと思った」

「来年は来なかった」

「そういうことだ」

ガルドは髪紐を握ったまま、水平線を見ていた。

しばらくして、小さく言った。

「遅くなったな」

握っていた髪紐を、また懐へ戻した。

誰に言ったのかは聞かなかった。

帰ってから、《エマと海を見る》に線を引いた。

工房の後継者は隣村から連れてきた。

木工が好きな十五歳の少年だった。

ガルドは最初、弟子なんか要らないと言った。

一か月後には、少年の作った箱をひっくり返し、角を指でなぞってから、

「蓋が三分ずれてる。明日もう一個作れ」

と言った。

《工房の後継者》にも線を引いた。

それから三年。

ガルドは七十五になった。

ダリオ一家は年に二度、王都から村へ来る。

孫娘は十一歳になった。

弟子は簡単な仕事なら一人で任されるようになった。

過去の話は、ほとんどしなくなった。

代わりに未来の話をするようになった。

孫が字を覚えるところを見たい。

弟子が一人前になるところを見たい。

来年、工房の前に植えた木が咲くところを見たい。

僕は記録を二つに分けた。

《過去への後悔》

《未来への希望》

前者は減った。

後者は増えた。

幸福にするほど、先を欲しがる。

息子と仲直りさせれば、孫の成長が見たくなる。

弟子を与えれば、一人前になるところが見たくなる。

身体を治せば、来年の春まで生きたくなる。

僕が心残りを消そうとするほど、ガルドには死ねない理由が増えていった。

そのことに気づいた夜、僕は長いこと記録を眺めた。

《未来への希望》

欄だけが増え続けている。

なら。

これを減らせばいいのではないか。

孫に会う回数を減らす。

弟子を工房から離す。

来年の春を期待させない。

未来との繋がりそのものを薄くすれば、欲しいものは減る。

理屈としては、正しいはずだった。

翌日、王都から手紙が届いた。

ダリオからだった。

《冬が明けたら、父さんを王都へ連れてきてほしい。娘が通う学校も店も見せたい》

僕は読み終えた。

ガルドには、まだ見せていない。

机の上に置いたまま、しばらく考えた。

これを渡せば、未来への希望が一つ増える。

渡さなければ、増えない。

簡単だった。

僕は手紙を机の引き出しへ入れた。

そのまま三日置いた。

四日目。

ガルドが診療所へ来た。

「王都から何か来てねえか」

「なぜです」

「この前、孫が来たとき、ダリオが手紙を出すって聞いた」

僕は引き出しを見た。

「来ています」

「なんで渡さねえ」

「少し、確認したいことがありました」

「何をだ」

答えなかった。

ガルドは僕の顔をしばらく見ていた。

僕が引き出しから手紙を出すと、ガルドは奪うように受け取った。

最後まで読んで、折り畳んだ。

「先生」

「はい」

「お前、時々ほんとに気味悪いな」

「よく言われます」

「褒めてねえ」

怒鳴るかと思った。

でもガルドは、それだけ言って帰った。

僕はその日、記録に何も書けなかった。

手紙を隠していた三日間、新しい予定は増えなかった。

それだけだった。

ガルドは工房へ行き、孫の話をし、春の木を気にしていた。

すでにある希望は、一つも減らない。

なら、もっと直接切るしかない。

孫を来させない。

弟子を工房から離す。

春まで生きる理由を、こちらから減らしていく。

そこまで考えて、記録を閉じた。

それをやれば、今度は僕自身が《会えなかった》《続けさせてもらえなかった》を作る。

心残りを消すために、新しい心残りを足すことになる。

秋の収穫祭。

ガルドは酒を飲みすぎて、孫と弟子に両側から止められていた。

「じいちゃん、もう駄目!」

「師匠、先生に怒られますよ」

「俺は七十五だぞ。好きに飲ませろ」

「七十五だから止めてるの!」

夜が更け、人が減った頃。

ガルドが僕の隣へ座った。

「先生」

「何ですか」

「まだ、あれ聞くのか」

「あれ?」

「心残り」

「聞きますよ」

「じゃあ今聞け」

僕は杯を置いた。

「もし今日死ぬとしたら、心残りはありますか」

ガルドはしばらく黙った。

「……ねえな」

僕は顔を上げた。

「一つも?」

「たぶんな」

「孫は?」

「元気だ」

「弟子は?」

「あいつはもう、俺がいなくても食える」

「息子さんは」

「相変わらず馬鹿だが、まあやっていける」

「来年の春は?」

「見たいな」

「では、あるじゃないですか」

ガルドが笑った。

「違うんだよ」

「何が違うんです」

「知らん。自分で考えろ」

腹が立った。

僕はずっと考えている。

何年も。

本人より細かく、ガルドの心残りを記録してきた。

「今死んでも、本当に後悔しませんか」

ガルドは片付けをしている村人たちを見た。

孫娘は友達と屋台の残りを漁っている。

弟子は酔って椅子で寝ていた。

「しねえよ」

その夜、僕は記録に書いた。

《対象者ガルド》

《過去への後悔:なし》

《自己申告:本日死亡しても後悔なし》

少し迷って、最後に一行足した。

《候補:完成》

四年かかった。

手が少し震えた。

人間は実際に死ぬとき、答えを変える。

最後まで観察しなければならない。

冬の初め。

ガルドが倒れた。

病気ではなかった。

七十五年動き続けた心臓が、弱っていた。

治癒魔法は傷を治せる。

病に侵された組織も戻せる。

でも、正常な七十五歳の心臓を二十歳には戻せない。

僕は魔力を流し、苦痛を抑えた。

夕方にはダリオ一家が着いた。

弟子も工房と寝台の間を何度も往復した。

夜が深くなるにつれ、ガルドの呼吸は浅くなった。

もう長くない。

僕には分かった。

ガルドが目を開けた。

「セイン」

初めて、名前で呼ばれた。

「はい」

「他の奴、外してくれ」

家族を部屋から出した。

扉が閉じる。

僕とガルドだけになった。

「治せるか」

「若返らせる魔法はありません」

「そうか」

「怖いですか」

「少しな」

僕の胸が高鳴った。

今だ。

「心残りはありますか」

ガルドが、かすかに笑った。

「やっぱり聞くんだな」

「大事なので」

「お前にとってはな」

僕は黙った。

ガルドは目を閉じたまま言った。

「ある」

頭の中が真っ白になった。

「……ある?」

「ああ」

「何がです」

「孫が大人になるところ」

僕は何も言わなかった。

「小僧が一人前になるところも見たい」

まだある。

「ダリオの店にも一度行きたかった」

まだ。

「春も見てえな。あの木、今年初めて花が咲くだろ」

四年。

四年かけた。

息子を戻した。

孫に会わせた。

海へ連れていった。

弟子を作った。

身体も、できる限り保たせた。

なのに、最後の最後でまた増えた。

僕はガルドの胸に当てていた手を見た。

魔力を流し続ければ、苦痛は抑えられる。

止めれば、すぐに死ぬわけではない。

ただ、苦しくなる。

一瞬だけ考えた。

苦痛が増えれば、欲望は減るのだろうか。

孫も春もどうでもよくなって、ただ終わってほしいと願うのだろうか。

確かめられる。

今なら。

僕は魔力を少し弱めた。

ガルドの眉が寄った。

呼吸が乱れる。

その顔を見た瞬間、手が止まった。

違う。

これは、僕が見たいものではない。

苦痛に負けて「もういい」と言わせても、何の意味もない。

魔力を戻した。

ガルドの呼吸が少し落ち着く。

「失敗だ」

気づけば、口に出していた。

「何が?」

「……僕です」

ガルドは目を開けた。

「で、お前は何を確かめたかった」

僕は答えなかった。

「まあ、いい」

ガルドは短く息を吐いた。

「お前が何してたか、全部は分からん」

「全部?」

「ダリオ呼んだり、海連れてったり、弟子連れてきたり。俺の人生を勝手にいじってたのは分かってた」

「なぜ止めなかったんです」

「だいたい得してたからな」

少し笑った。

「手紙隠したときは殴ろうかと思ったが」

「すみません」

「ほんとにな」

しばらく沈黙があった。

僕はもう一度聞いた。

「それでも、心残りはあるんですね」

「ああ」

「では、満足していない」

ガルドが眉を寄せた。

「なんでそうなる」

「まだ欲しいものがあるからです」

「見たいのと、足りないのは別だぞ」

意味が分からなかった。

「孫が大人になるところは見たい」

「はい」

「春も見たい」

「はい」

「できりゃ、あと十年くらい生きたい」

「では――」

「でも、見られなくても構わねえ」

僕は黙った。

「十分だからな」

「何がです」

「もう十分もらった」

「でも、まだ欲しいものがある」

「ああ」

「矛盾しています」

「してねえよ」

ガルドは少し笑った。

「飯食って腹いっぱいになっても、うまそうな菓子見りゃ食いたいだろ」

「僕はあまり」

「例え話だ」

「分かっています」

「満腹ってのは、世の中から食い物がなくなることじゃねえ」

それだけ言って、目を閉じた。

僕は何も言えなかった。

しばらくして、ガルドが小さく言った。

「みんな呼んでくれ」

家族を入れた。

孫娘が手を握った。

ダリオが反対側へ座った。

弟子は寝台の足元で泣いていた。

ガルドは一人ずつ見た。

「泣くな。うるせえ」

孫娘が余計に泣いた。

ダリオは笑いながら泣いた。

ガルドも少し笑った。

夜明け前。

最後に、ほとんど声にならない声で言った。

「いい人生だった」

そのまま死んだ。

葬儀の夜。

僕は四年分の記録を机へ広げた。

《息子》

《海》

《工房》

《過去への後悔》

ほとんどすべてに線が引いてある。

《未来への希望》だけは残っていた。

孫の成人。

弟子の独立。

春の花。

ダリオの店。

一つも消えていない。

それでもガルドは、十分だと言った。

僕は新しい紙を出した。

《仮説一》

《人間は、未練と欲望をすべて解消すれば、満足して死ねる》

上から一本線を引く。

その下に書いた。

《仮説二》

《満足とは、欲しいものがなくなることではない》

少し考えて、その下に書いた。

《仮説三》

診療所の外で、戸を叩く音がした。

「先生ー!」

僕は記録を閉じた。

「今行きます」

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