俺は一日に一度だけ、石を一センチ動かせる

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俺は一日に一度だけ、石を一センチ動かせる。正確には、石一つを、好きな方向へ最大一センチ。

その日も俺は、建物の土台に使う五百キロほどの石を、七ミリだけ右へ動かして仕事を終えた。

「よし」

地面に引いた目印の線にぴたりと合った石を見て、俺は腰を伸ばした。親父――テオは、しゃがんだまま石と石の継ぎ目を指でなぞった。

「便利だな」

「もうちょっと褒めてもいいだろ」

「石が勝手に動いたところの何を褒める」

言われてみれば、その通りだった。俺の《賜能しのう》が現れたのは十四のときだ。人によっては一つだけ現れる、魔法とは別の特殊な力だ。神殿で内容を告げられた俺より先に、親父が言った。

『一センチか』

親父は少し考えてから言った。

『石屋には十分だな』

実際、仕事ではよく役に立った。英雄になるにはどう考えても足りないが、石屋をやるには案外悪くない。

何人がかりで据えた石が最後に数ミリずれた。古い石橋の一枚だけ、ほんの少し位置を戻したい。そんなとき、一日一回だけ使える俺の力は半日分の仕事を消してくれる。

だから俺は、二十四になった今まで、この《賜能》に大した不満を持ったことがなかった。そのうち親父のところから独立して、自分の工房を持つ。

橋でも水路でも家の基礎でもいい。何十年か残るものを作って、それで飯を食っていくつもりだった。翌日、魔王の封印遺跡へ行くまでは。

魔王の封印遺跡、と聞けば、たいていの人間はもっと物々しいものを想像するらしい。

俺が初めて見たそこには、欠けた石段と苔の生えた壁と、詰まりかけの排水路があった。

遺跡の入口は低い岩山の中腹にある。麓までは歩いて十分もかからない。その頃、麓にあったのは管理人用の宿舎と資材小屋が数棟くらいだった。

「今回直してほしいのはここ」

管理人のミラが、魔灯をかざした。俺より少し年上に見える。暗い栗色の髪を後ろで一つに束ね、手には帳面、腰には鍵束。歩くたびに鍵束の揺れる音が小さく鳴った。

「中枢じゃないんですね」

「中枢を石工に好きに触らせるほど困ってない」

「ですよね」

外周区画の排水溝は、百年単位で補修を重ねているらしい。割れた側石を外し、親父と俺で切ってきた新しい石を据える。途中までは問題なかった。

最後のところで止まった。

「……八ミリ」

俺は隙間へ指を差し込み、目を細めた。新しい石が八ミリほど入らない。切り方を間違えたわけじゃない。排水路の脇から、膝くらいの古い石がわずかに張り出している。

「これ、邪魔ですね」

「それは動かない」

ミラは即答した。

「動かない?」

「記録では、少なくとも百二十七年。てこも滑車も魔法も駄目。昔の補修も全部そこを避けてる」

石には碑文も飾りもない。ただ古くて、妙に黒いだけだ。俺は新しい側石を見た。これを一度引き上げて、八ミリ削って、もう一度据える。半日は飛ぶ。

それから黒い石を見た。

「こっちを一センチずらした方が早くないですか」

ミラの片眉が上がった。

「動くなら、その方が早い」

「俺、石を一センチ動かせるんです」

「聞いてる」

「傷は付けません」

「普通の魔法で動かないって意味が伝わってない?」

「動かなかったら、削り直します」

ミラは黒い石を見て、それから俺を見た。少し考える。

「……やってみて」

俺はしゃがんだ。別に触る必要はない。動かしたい石を見て、方向を決める。いつものことだ。一センチ、壁側へ。そう思った。

石が動いた。

ご、と小さな音がした。

たった一センチ。

おかげで側石はきれいに収まった。

「よし」

俺は口元が緩むのを感じながら、継ぎ目を確認した。

「これなら水も噛まないですね」

返事がない。

振り向くと、ミラが石を見ていた。瞬きをしていなかった。

「……ミラさん?」

「今」

ようやく瞬きを一つ。

「何をした?」

「一センチ動かしましたけど」

「それは見た」

声が妙に平坦だった。ミラは腰の点検帳を抜き、黒い石の脇にしゃがみ込んだ。古い傷、床との境目、壁からの距離。何度も確かめる。

「作業、中止」

「排水路、まだ半分ありますよ」

「中止。研究院へ報告する」

俺は首の後ろを掻いた。

「そんなにまずい石だったんですか」

「まずいかどうかを調べる」

ミラは立ち上がった。

「今日はもう、その力を使わないで」

「もう今日の分は使いましたよ」

また、片眉が上がった。そのときはまだ、まさか十年近く、ほとんど毎朝ミラの顔を見ることになるとは思っていなかった。

三日後、王都から学者が七人来た。一週間後には十二人になった。二週間後、排水路の周りは俺たち石工より学者の方が多くなっていた。

最初に動かした黒い石は、古代人が施設の位置を測るために据えた、目印の石の一つだったらしい。研究者たちは、そういう石を《基準石》と呼んでいた。

「《定着術》が掛かっている」

白髪の研究者が言った。

「簡単に言えば、動かないようにする魔法だ」

「でも動きましたよ」

「だから困っている」

俺に怒られても困る。何度か別の古い《基準石》で試験した。魔術師が押しても、引いても、浮かせようとしても動かない。俺が《賜能》を使うと、一センチだけ動く。

研究者たちは三日ほど議論して、結局こう説明した。

「《定着術》は、石を動かそうとする力を打ち消しているらしい」

「はあ」

「君の《賜能》は石を押していない。理由もなく、結果だけ位置が変わっている」

「はあ」

「分かるかね」

「動かせるってことは分かりました」

俺にはそこまで分かればよかった。ところが、試験が終わると研究者が言った。

「一度、見てほしいものがある」

そう言われて、俺はミラと一緒に遺跡の地下へ降りた。外周区画よりずっと深い。ミラでさえ普段は入らないという扉を、鍵を三つ替えて開ける。

途中で、ずっと引っかかっていたことを聞いた。

「ミラさん。《不死王》って、本当に何度も生き返ったんですか」

「記録に残ってるだけでも、何度も」

俺が知っていたのは、子供の頃に聞いた昔話の方だ。七百年前、戦場で殺されても同じ王が戻ってきた。王を討っても戦争が終わらない。最後は、また身体を作られる前に、敵の連合軍が蘇るための設備ごと地下へ埋めた。

今では、昔の王というより魔王として語られている。

「そんなものが、まだ動くんですか」

「動く可能性があるから、ずっと見張ってる」

ミラが最後の鍵を回した。

その先に、《原点石》はあった。最初に思ったのは「大きい」ではなく、「変な置き方だ」だった。高さは五メートルほど。幅も奥行きも四メートルはある一枚岩。

けれど石工の目を引くのは、そこじゃない。床の線も、柱の並びも、壁の刻みも、全部がその石から測ったように揃っていた。部屋の方が石に合わせて作られている。

「これが《原点石》」

ミラが言った。

「《不死王》の再生施設は、ここを基準に組まれてる」

「これも動かない?」

「七百年、一度も」

何百トンあるかは知らない。重さだけなら、国中から人と道具を集めればどうにかする方法を考えられるかもしれない。

でもこいつには、さっきの小さな石とは比べ物にならない《定着術》が掛かっている。壊すことも、持ち上げることもできない。七百年前の連合軍も、それで諦めた。

「怖い?」

ミラが聞いた。

「ちょっと」

正直に答えた。

「一センチ動かしたら全部爆発するとか、ないですよね」

「ない、と研究班は言ってる」

「ミラさんは?」

「分からない」

即答だった。その方が信用できた。俺は《原点石》を見た。試験用に、床へ細い目印の線が引かれている。

一センチ。

俺が毎日、仕事で消してきた程度の距離だ。

「やります」

《原点石》を一センチ動かした。低い音がした。部屋全体が揺れた気がしたが、実際に揺れたのは石の下で噛んでいた砂だけだったらしい。

《原点石》の縁に、今まで隠れていた床が一センチ現れた。部屋の端で、古代の計器の針が一本だけ跳ねた。誰も喋らなかった。俺はミラを見た。ミラも俺を見ていた。

今度は瞬きを忘れていなかった。

そこから先は、俺の仕事ではなかった。学者が古代文書を読み、測量士が地下を測り、技師が床下を調べた。俺は親父と石を切っていた。

一か月ほどして、また遺跡へ呼ばれた。机の上に、地下施設の図面が広げられていた。

研究者は、距離の話をする前に一枚の観測表を俺へ向けた。

「まず、あの設備は死んでいるわけではない」

「封印されてるのに?」

「七百年前の連合軍がやったのは、外から魔力を入らなくして埋めたところまでだ。中身を壊せたわけじゃない」

ここ数十年、地下では少しずつ魔力が増えている。古代の記録と照らすと、再生が始まる前の状態に近づいているらしい。正確な日は分からない。ただ、十年や十五年のうちに動き始めてもおかしくない。

「動き始めたら、《不死王》が戻る?」

「その前に、設備が周りから魔力を吸う。古代末期には水源が痩せ、農地も魔術設備も使えなくなった。王が目を開けるより先に被害が出る」

俺は図面を見た。

「じゃあ、起きる前に止めるしかない」

「そのための話だ」

研究者が別の図面を開いた。

「三十四メートル七十二センチ」

「長いですね」

「君が言うかね」

図面には、《原点石》から外へ伸びる折れた線が引かれていた。

「地下で見た床の線、あれ全部なんですか」

「一つの巨大な魔法陣だ」

研究者が図面の円を指でなぞった。《原点石》がある部屋だけじゃない。周りの通路や再生槽の下まで、何十メートルにもわたって線が続いている。

「《原点石》も、ただの岩じゃない。あれ自体が巨大な魔石だ。《不死王》の身体と記憶を作り直すための術式が刻まれている。周囲から集めた魔力が床の魔法陣を通って《原点石》へ入り、そこで再生の術に変わって再生槽へ流れる」

「じゃあ、あの石が魔法陣の上にあるから、再生術が動く?」

「そう考えている」

研究者は、最初に《原点石》を一センチ動かした日の観測表を叩いた。

「君が石を動かした瞬間、床の術式を流れる魔力がわずかに変わった。設計者は《原点石》が動くなんて考えていない。何しろ、動かないよう《定着術》まで掛けてあるからな。だが逆に言えば――」

「魔法陣の外まで持っていけば、止まる?」

研究者がうなずいた。

「止まるはずだ。少なくとも、今分かっている仕組みでは一番筋が通る。一部でも石が陣の上に残れば、完全に切れる保証がない。だから丸ごと外へ出す」

魔法陣そのものを壊す案も出たらしい。ただ、術式は岩盤の奥まで何重にも刻まれ、どこを壊せば完全に止まるのか分からない。下手に傷つけて、溜まった魔力がどう流れるかも読めない。

それなら、場所の分かっている術式の核を、魔法陣から丸ごと引き離す。

そのためには《原点石》を完全に陣の外まで運ぶ必要がある。直線ならもう少し近い。

だが途中には壊せない柱があり、数百トンの石を通せない脆い床があり、《不死王》の身体を作り直すための大きな再生槽がある。普通に壊せる壁を壊し、床を補強し、安全に通せる最短経路。

それが三十四メートル七十二センチ。

「三千四百七十二センチか」

俺が言うと、研究者がうなずいた。

「そうだ」

「一日一センチ」

「そうだ」

俺は図面を見た。もう一度、数字を見た。

「毎日ですか」

横にいたミラが言った。

「毎日」

研究者は咳払いした。

「正確には休止日を見込む。君が病気になることもある。工事が止まることもある。封印の劣化予測には幅があるが、現状なら間に合う可能性は高い」

「十年近く?」

「そうなる」

十年。

二十四の俺が、三十四になる。俺は首の後ろを掻いた。

「朝だけでいいんですよね」

研究者が目を丸くした。

「朝?」

「終わったら普通に仕事していいんですよね。石工の」

ミラの口元が少しだけ緩んだ。

国との契約が決まった日の夜、親父に話した。

「十年か」

「たぶん」

「朝何時からだ」

「そこ?」

「終わってから仕事に来るんだろ」

「そのつもり」

親父は酒を一口飲んだ。

「なら寝ろ。明日も早い」

本当に、それだけだった。

翌朝。

ミラが封印区画の鍵を開けた。

「異常は?」

俺が聞いた。

「なし」

「動かす」

「どうぞ」

《原点石》は一センチ動いた。一日目だった。

百日目。

《原点石》は一メートル動いていた。後ろには、七百年ぶりに日の目――ではなく魔灯の光を浴びた古い床が、細長く伸びていた。最初の頃は毎日学者が何人も見に来た。

百日目には、俺とミラしかいなかった。

「異常は?」

「なし」

「動かす」

「どうぞ」

一センチ。

ミラが帳面に書く。俺は地上へ戻る。そこからが、普通の仕事だった。そして普通の仕事の方が、前より面倒になった。

「六ミリ右」

親父が言った。

「分かってる」

「直せ」

「今日はもう使った」

「知ってる」

石橋の補修で、据えた石が六ミリずれていた。前なら一瞬だ。今はてこを入れ、くさびを噛ませ、二人で息を合わせて動かすしかない。汗だくになって、やっと目印に合った。

親父が継ぎ目を見た。

「悪くない」

たったそれだけなのに、《賜能》でぴたりと合わせたときより少し嬉しかった。

一年目。

《原点石》の後ろには三メートルを超える古い床が現れた。遺跡の外には仮設小屋が増えた。研究棟が建ち、工事人向けの食堂ができ、その隣に宿ができた。

俺は毎朝石を一センチ動かし、そのあと他人の家の基礎を作った。世界を救っている、という実感は薄かった。朝の仕事が一つ増えただけだった。

二年目の冬、俺は熱を出した。

それでも遺跡まで行った。入口でミラに止められた。

「帰って」

「まだ一回残ってる」

「知ってる」

「一センチだけなら」

「帰って」

声がいつもより平らだった。俺が動かないでいると、ミラは点検帳を閉じた。

「人間が十年、一度も寝込まない前提で工程は組んでない」

「でも」

「カイが死ぬ前提でも組んでない」

それで追い返された。その日は、ゼロセンチだった。翌朝には熱が下がらず、もう一日休んだ。三日目にようやく遺跡へ行くと、ミラは何も言わず鍵を開けた。

「異常は?」

「なし」

「動かす」

「どうぞ」

石はいつも通り一センチ動いた。

三年目、俺は小さな工房を借りた。親父のところから完全に離れたわけじゃない。ただ、遺跡の周りに仕事が増えすぎて、こっちにも拠点があった方が都合がよかった。

最初は工事人しかいなかった町に、家族連れが増えていた。パン屋もできた。朝早くから開いていて、遺跡へ行く途中にちょうどいい。

俺が二つ買うようになった理由は、別に深くない。

「甘い方、今日も置いとく」

管理棟の机に包みを置く。ミラは帳面から顔を上げずに、

「今日は甘くない方がいい」

と言った。

「昨日もそう言って俺の食っただろ」

「昨日とは違う」

「何が」

「今日は甘くない方がいい」

結局、俺は甘い方を食べた。そういう朝が増えた。

四年目、弟子が来た。

「ニナです。十四です。弟子にしてください」

小柄な少女が、工房の入口で頭を下げた。

「なんでうち」

「一センチで魔王を倒す人だからです」

「まだ倒してない」

「じゃあ、倒す予定の人」

「俺、石工なんだけど」

「知ってます」

話が通じているのか分からなかった。人手は欲しかったので、結局置いた。最初の一か月は道具の名前を覚えさせるだけで終わった。

二か月目、初めて小さな敷石を据えさせた。当然ずれた。

「親方。三ミリです」

「見れば分かる」

ニナは期待した顔で俺を見た。

「例の力で?」

「朝使った」

「じゃあ、これどうするんです?」

「普通に直す」

「世界を救う力なのに?」

「世界を救う前から石屋の力だよ」

てこの位置を教え、くさびの打ち方を教えた。ニナは三回失敗して、四回目で石を合わせた。

「入った!」

「でかい声出すな。隣も直せ」

その日の夕方、ミラにその話をすると、口元だけで笑った。

「親方らしくなった」

「まだ二十八だけど」

「年齢の話はしてない」

「じゃあ何が」

「口うるささ」

初めて、ミラにちょっと腹が立った。

四年目の終わり、研究班が《不死王》の古い公文書を見つけた。昔話の魔王とは、ずいぶん違う男がそこにいた。

「最初から不死だったわけじゃないらしい」

朝、ミラが言った。

「じゃあ、何であんなものを作ったんだ」

「最初の一回は、国を救った」

先王の急死で国が割れた経験から、王が死んでも統治を続けられる仕組みとして再生術を作った。

実際、最初に王が戦死したとき、数日後に同じ王が戻ったことで軍は崩れず、多くの人間が助かった。だから、やめなかった。

「成功したんだな」

「らしい」

「成功したなら、やめにくいか」

ミラは少しだけ考えた。

「そういうことも、あるんだろうね」

それ以上は話さなかった。その日の《原点石》も、一センチ動いた。

五年目の初夏。

《原点石》の進路を作るため、古い保守区画の壁を崩していたときだった。俺はまだ朝の一回を使っていなかった。工事が終わってから《原点石》を動かす予定だったからだ。

石が割れる音は、慣れている。嫌な音も分かる。ぱき、ではない。奥で、低く、重く鳴る。

「止めろ!」

俺が叫んだとき、天井近くの古い石組みが沈んだ。作業員が四人、奥にいる。逃げ道の上へ落ちる。俺は石組みを見た。中央でくさびの役目をしている石が、振動でわずかに抜けている。

あれを戻せば、持つ。長くは無理でも、人が走り抜ける間くらいは。

「全員、こっち!」

俺はその石を見た。一センチ、奥へ。

石が動いた。

天井が一度、止まった。

「走れ!」

四人が飛び出してくる。最後の一人が転がるように通路を抜けた直後、石組みが崩れた。砂埃で何も見えなくなった。咳き込みながら人数を数える。四人いる。

腕を擦りむいた奴が一人。

それだけだった。

昼過ぎ、俺はミラの前に立った。

「今日の一回、使った」

「聞いた」

「《原点石》は」

「明日」

ミラは点検帳を開いた。日付の横に、短く書く。移動なし。理由欄へ何か書いてから、俺を見る。

「これでいい?」

「何て書いた」

「坑道事故対応」

「それで」

ミラはうなずき、帳面を閉じた。

次の日、石はまた一センチ動いた。

六年目には、ニナが一人で石を割れるようになった。七年目には、親父が槌を置いた。

「腰が駄目だ」

工房の椅子に座って、本人は他人事みたいに言った。

「医者は?」

「行った。石を持つなってさ」

「珍しく正しいこと言う医者だな」

「お前まで言うな」

親父は壁に掛けてあった古い木札を外した。テオ石工房。俺が子供の頃から見ていた看板だ。

「掛け替えるなら自分でやれ」

「親父の名前、消すのか?」

「お前の店だろ」

「勝手だな」

「親ってのはそういうもんだ」

大した引退式もなかった。翌日から親父は昼まで寝るようになり、俺は親方になった。ニナが俺を「親方」と呼ぶのも、いつの間にか冗談ではなくなった。

その週、ミラが一枚の紙を見せてきた。古代文書の写しだった。

「最後の日の記録」

「《不死王》の?」

「そう」

紙には長い文章があったが、ミラが指したのは一行だけだった。

――王は停止を拒んだ。

「止められたのか?」

「本人なら。永久停止の権限があったらしい」

「じゃあ、なんで」

「止めた後、自分の国の人間が守られる保証がなかった」

連合軍は降伏すれば民間人を殺さないと約束した。ただ、戦争の最中にそんな約束が絶対だと言える人間はいなかった。《不死王》は尋ねたらしい。

停止後の民の安全を、誰が保証する、と。誰にも保証はできなかった。だから、止めなかった。

「保証なんて」

そこまで言って、俺は口を閉じた。

俺は紙をミラへ返した。

「行く?」

ミラが聞いた。

「行く」

地下へ降りる。

「異常は?」

「なし」

「動かす」

「どうぞ」

その日も石は一センチ動いた。

八年目。

そこまでに、熱を出した日も、地下水が入って坑道を閉じた日も、安全確認だけで一日を使った日もあった。点検帳には「移動なし」が何度も残った。

それでも《原点石》の後ろに伸びる古代床は、もう立派な道だった。研究員たちは普通にそこを歩くようになっていた。

最初の一センチを見た人間の中には、王都へ戻った者もいた。若手だった学者が班長になっていた。ミラの点検帳は、棚一段では足りなくなった。

俺の工房にはニナの下に、もう一人見習いが入った。

九年目。

ニナは俺がいなくても簡単な現場を回せるようになった。俺が朝の遺跡から戻ると、もう石が据わっていることがある。

「どうです?」

得意げに聞くので、継ぎ目を指でなぞる。

「悪くない」

「それ、テオさんと同じ言い方」

「気のせいだ」

自分でも、たぶん嘘だと思った。ミラが口元だけで笑ったとき、目尻に前はなかった細い皺が浮かぶようになったのも、その頃だった。本人に言うことでもないので黙っていた。

俺も鏡を見ると、目尻の線が前より少し深くなっていた。そんなことを互いに言う必要はなかった。毎朝会っていると、変化は分からない。

昔のことを思い出したときだけ、ずいぶん変わったと気づく。石以外は。石だけは、一日一センチだった。

十年目の秋。

残り二十六センチになった朝、俺はいつものように聞いた。

「異常は?」

ミラは点検帳から顔を上げた。

「ある」

十年近く聞いて、初めての答えだった。

「どこ」

「全部、少しずつ」

地下へ降りる途中で分かった。壁の奥から、低い音がしている。古代の魔力導管が、ところどころ青白く光っていた。水の流れていた溝が乾き始めている。

再生設備が、周囲から魔力を吸い始めたのだ。研究班の予測より早い。

「あとどれくらい持つ?」

「分からない」

ミラは言った。

「だから、予定通り」

《原点石》の前へ出る。

「動かす」

「どうぞ」

一センチ。

残り二十五センチ。

その日のうちに、町の避難が始まった。軍が街道を押さえ、魔術師たちが地上の魔力路を切り替え、工事班が地下通路の補強に入った。

翌朝も、一センチ。

数日後、再生槽の反応が上がった。さらに数日後、周辺の井戸で魔灯が点かなくなった。山側の集落は完全に空になった。俺は毎朝、同じ道を降りた。

工事班が夜通し補強した梁の下を通り、研究者が貼り替えた警告札の横を抜け、ミラが開ける最後の扉をくぐる。

一センチ。

また一センチ。残り十二センチの朝、再生槽の向こうに白い影が見えた。骨かもしれない、と研究者は言った。俺は見に行かなかった。俺の仕事は《原点石》の方だ。

残り八センチ。

床が一度大きく震えた。通路の一部が落ち、その日の作業開始は昼まで遅れた。工事班が道を開けた。俺は一センチ動かした。

残り五センチ。

ミラの点検帳は、もう一ページに収まらないくらい異常項目が増えていた。

「寝てる?」

俺が聞いた。

「カイよりは」

「俺、寝てるけど」

「なら私も寝てる」

嘘だと思ったが、言わなかった。

残り二センチ。

研究班から、再生反応が危険域に入ったと報告が来た。それが今日なのか、一週間後なのかは分からない。誰も分からない。でも、残りは二センチだった。

俺にできるのは一日一センチだった。だから、その日は一センチ動かして帰った。

次の朝。

俺はいつもより早く目が覚めた。工房の奥ではニナが寝ているはずだったが、もう起きていた。

「親方」

「何だ」

「いってらっしゃい」

「ああ」

それだけだった。

町にほとんど人はいない。パン屋も閉まっていた。三年目にできてから、何年も朝に寄った店だ。遺跡の入口でミラが待っていた。目の下には薄い隈がある。ここ数日、俺より寝ていない顔だった。

腰の鍵束は、十年前と同じ音を立てた。地下へ降りる。古代の設備は、もう眠っているようには見えなかった。床の線が脈打つように明滅している。

奥から響く低音が、胸の骨に触る。《原点石》の前には、測量班が引いた最後の線があった。魔法陣の外まで、あと一センチ。正確には、《原点石》の最後の端が線を越えるまで一センチだった。

十年前なら、仕事の誤差だった距離。俺は《原点石》の前に立った。

「異常は?」

ミラは点検帳を見た。少し考えた。

「ある。全部読んだら朝になる」

「石は?」

ミラが《原点石》を見る。

「動かせる」

「じゃあ、いい」

俺は石を見た。特別な力が湧いてくることはなかった。《賜能》が成長したこともない。昨日と同じ。十年前とも同じ。石一つを、最大一センチ。

俺は《原点石》を一センチ動かした。ご、と。数百トンの石には似合わない、小さな音だった。

石の最後の端が、魔法陣の線を越えた。

すぐには何も起きなかった。一拍。二拍。

部屋の端に並んでいた古代計器の針が、一斉に落ちた。床を走っていた青白い線が、《原点石》に近い方から消える。一本。また一本。奥で鳴っていた低い音が弱くなった。

長く息を吐くように、最後の光が消えた。静かになった。あまりに静かで、自分の呼吸がうるさかった。

次の瞬間、廊下の向こうで声が弾けた。

「止まった!」

「再生槽もだ!」

誰かが叫び、別の誰かが笑った。遅れて、いくつもの歓声が地下通路を走ってきた。

研究班の責任者が、息を切らして部屋へ飛び込んできた。いつも難しい顔をしていた男が、今日は子供みたいに笑っていた。

「止まったぞ、カイ! 本当に止まった!」

両肩を掴まれて、二度ほど強く揺さぶられた。後ろでは研究者同士が抱き合い、壁にもたれて泣いている奴までいる。

俺はというと、急に何をすればいいのか分からなくなった。大声で叫ぶ柄でもない。《原点石》を見る。

もう、動かさなくていい。

横で、ミラが点検帳に何か書いていた。

「何て書いた?」

「移動、一センチ」

「いつも通りだな」

「その下に、再生反応停止」

「そっちは初めてだ」

ミラの口元が少し緩んだ。帳面を閉じる。十年分の中で、たぶん一番静かな音だった。

「明日は?」

俺が聞いた。ミラは片眉を上げた。

「点検はする」

「俺は?」

「来なくていい」

「そうか」

十年近く、毎朝ここへ来た。

明日の朝、何をすればいいんだろう、と先に思った。

その日の午後まで、研究班は何度も術式を測り直した。消えた反応は戻らなかった。周囲から魔力を吸う気配もない。

日が傾く前に、避難解除を告げる鐘が鳴った。

岩山の麓にある町へ、街道の先へ避難していた人たちが少しずつ戻ってきた。荷車の音が増え、閉じていた家に灯りがつく。工房の前まで戻った頃には、通りの向こうで子供が走っていた。

翌朝、俺はいつもの時間に目を覚ました。靴を履きかけて、今日は遺跡へ行かなくていいことを思い出した。

窓を開けると、町はもう朝の音を立てていた。荷車が石畳を通り、店の戸が開く。パン屋の煙突から煙が上がり、焼けたパンの匂いがした。

もう一度寝る気にはなれなかったので、工房へ行った。

店先を掃いていたパン屋の親父が、敷石を指して俺を呼んだ。

「避難の荷車でずれたみたいでな」

見れば、九ミリほど浮いている。ニナがしゃがみ込んだ。

「てこ、持ってきます」

「ああ」

答えてから、俺は止めた。

「いや、待て」

「どうしました?」

俺は敷石を見た。今日の一回が、まだ残っている。そんな当たり前のことを忘れていた。十年ぶりだった。

「今日は、これでいい」

石を一センチ動かす。敷石が、ぴたりと収まった。ニナが目を丸くする。俺は継ぎ目を指でなぞった。悪くない。一センチ動いた。石屋には、それで十分だった。

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